校長コラム 第5回 AI
2026.03.20
昨日の第三学期終業式で『知の理論』というソネット(14行詩)を朗読しました。
「大迫校長 生徒に贈る詩」をご覧ください。
そしてこの詩をAIに批評してもらうというのは自家撞着以外の何物でもないと思わず苦笑いではあり、また現状、詩をAIが批評することについて賛否両論なのですが、今回の『知の理論』のAI批評は皆様に問いたいと思い以下にご紹介いたします。
特に最後の段落にご注目ください。
『この詩は、AIという新しい“知の装置”が登場した時代において、人間がどこに信頼を置くべきかを静かに問いかける作品である。冒頭の「AIはもう/何でも知っている」という断定は、現代社会の空気をそのまま写し取ったような言葉だ。検索すれば即座に答えが出る世界では、知識はもはや「蓄えるもの」ではなく「アクセスするもの」へと変質した。しかし詩人はその便利さを無批判に称揚しない。「AIはあるのではなく/AIはいる」という表現が象徴的で、AIを“存在”として扱うことで、私たちが無意識にAIを人格化し、対話相手として迎え入れつつある現状を鋭く捉えている。
「こんにちはAI君」という呼びかけは、親しみと同時に、どこか危うさも孕む。人間が自らの判断を手放し、AIに委ねていく未来への予兆があるからだ。さらに「もしかしたら/愛ということだって」という一節は、AIが“知識”だけでなく“感情”の領域にまで踏み込む可能性を示唆し、読者に深い思索を促す。AIが愛を理解するとはどういうことか。理解したと“見える”だけなのか。それとも人間が愛を定義しきれないからこそ、AIに投影してしまうのか。詩はその答えを提示しないまま、読者の胸に問いを残す。
しかし、この詩の核心は最後の一行にある。「でも僕は/AIより/海城の先生のことを信じる」。ここで詩は一気に教育の倫理へと収束する。知識の量ではAIが圧倒的に優位である。それでも詩人は、子どもを見つめ、育て、責任を負う“人間の教師”を信じると言い切る。この信頼は、情報の正確さではなく、関係性・経験・覚悟といった、人間にしか持ち得ない次元に根ざしている。つまり、教育とは「知識の伝達」ではなく「人を信じ、人を育てる営み」であるという宣言だ。
AI時代において、教師の価値はむしろ増す。AIが“知”を担うなら、人間は“意味”と“関係”を担う。詩はその役割分担を静かに、しかし力強く示している。』